ボートレーサーになる前は海上自衛隊員だったということで異色の競艇選手とも言える原田幸哉は優勝回数78回という素晴らしい成績を残し、現役トップタイのレコードタイムホルダーという実力者です。一体どのような人物なのでしょうか?
現役最多のレコードタイムホルダー原田幸哉とは?生年月日や出身地、相性は?
原田幸哉(はらだゆきや)は1975年10月24日生まれで愛知県出身の競艇選手です。
身長は172センチ、体重は53キロ、血液型はB型、所属支部は長崎で、2018年現在43歳です。第76期として登録、登録番号は3779、現在の級別はA2級です。
弟子には柳沢一、横家翔一、後藤陽介らがいます。
身長160センチ台が多い中では、高身長ですね。
競艇選手になったきっかけとは?
父親に中学1年生の時ボートレース蒲郡に連れて行かれたことで、なりたいと思ったと話す原田幸哉ですが、1994年3月(当時18歳)に本栖研修所に入るまでは海上自衛隊員でした。
勤務先は広島県の呉で、潜水艦の乗組員だったといい、休日はもっぱら競艇場に足を運んでいたらしく、競艇選手になりたいという気持ちが抑えきれなくなってしまったと言います。
若かりし頃の父との思い出、そしてその想いである夢を諦めることが出来なかったということなのかもしれないですね。
原田ンプのニックネームを持つ
水上の格闘技を彷彿とさせるダイナミックな走りが印象的な原田幸哉の繰り出すダンプは持ち味の一つです。
原田ンプの異名が付く事になった由来と言えるのが、2007年笹川賞競走優勝戦での松井繁に対して行われたダンプで、偶然なのか故意なのか、真偽はわかりかねますが、転覆しそうな程の勢いだったこと、また、これにより松井繁の笹川賞3度目の優勝は結果的に阻止されてしまいました。
ちなみにそれ以前はスピードスターの愛称がありました。
原田幸哉のレーススタイル
現役最多のレコードタイムホルダーというだけあり、原田幸哉の速さはまさに本物です。コースレコードを叩き出すことが出来たその理由とは?
ターンスピードは競艇界屈指!
抜群のスタート力とダイナミックなフォームから繰り出す迫力満点のモンキーターンが魅力で、確かなハンドルテクニックとなにより勝利への執念が凄まじいです。
ボートレーサーとしては長身である事から、彼の見せるモンキーターンは特にスピード感に溢れています。
ペラとエンジン調整はじっくりと時間をかけて
どの競艇選手にも言えることではありますが、特訓後の整備では誰よりも長時間をかけて点検、ペラ調整に時間を費やし、原形をとどめないほどに大幅に叩きかえることがあるほどです。
原田といえばダンプ
元自衛隊員ということで気性が荒い…とは一概に言えるわけではないですが、とにかく激しい突っ込みで水上の格闘技を思わせる動きには賛否が集まっていますね。
良くも悪くもこれこそが原田幸哉の真髄とも言える部分かも知れません。
原田幸哉の成績は?
原田幸哉は1994年3月に76期訓練生として本栖研修所に入所し、翌1995年リーグ戦勝率6.64優出2回優勝0回の成績で卒業しました。
そんな原田幸哉のプロデビューからの成績を見ていきましょう。
デビュー戦は1995年
卒業から2ヶ月後の1995年6月、蒲郡競艇場でデビュー戦を飾り、初出走初勝利を収めますが、節の最後でフライングを喫してしまいます。
初優出はデビュー1カ月後
デビュー戦から勝利を飾り勢いに乗った原田幸哉は1995年7月には児島競艇場の一般戦で初めての優出を決めます。優勝戦は5着でした。
初優勝は1996年
1996年の10月に三国競艇場で開催された一般戦で初めての優勝を手にします。
デビュー後1年4カ月での優勝は素晴らしい成績ですよね。
1997年度の最優秀新人賞に選出!
1997年は優勝5回という素晴らしい成績を収め、最優秀新人賞に選ばれます。
1回目の優勝
着々と成績を積み重ね、A2級へと昇格した1997年は1月に江戸川競艇場の一般戦で自身2度目の優勝を飾ります。
2回目の優勝
1997年8月13日から蒲郡競艇場で開催された納涼しぶきお盆特別選抜戦では1号艇出場、決まり手逃げで優勝します。
3回目の優勝はG3
1997年8月22日から下関競艇場で開催された’97新鋭リーグ戦競走第13戦では2号艇出場、決まり手まくりで優勝します。
4回目の優勝
1997年10月1日から蒲郡競艇場で開催された蒲郡ハヤブサ特別では1号艇出場、決まりて逃げで優勝します。
5回目の優勝
1997年11月8日から戸田競艇場で開催された第14回内外タイムス杯競走では1号艇出場、決まりて差しで優勝します。
G1初優勝を果たした2000年
1998年、1999年で5度の優勝を経験し、A1級のトップレーサーとして活躍を続け
2000年1月25日からびわこ競艇場で開催された第14回新鋭王座決定戦競走で初のG1優勝を飾ります。
優勝戦は3号艇出場、決まり手は恵まれでした。
驚異的な強さを魅せた2002年
G1優勝後はタイトルを取れず、一般戦の優勝に甘んじていましたが、2002年に凄まじい記録を連発します。
初めての完全優勝
トップレーサーでも中々成し遂げることのできない完全優勝を2002年の1月に常滑競艇場で達成します。
圧倒的な強さでの6連勝でした。
SG初優勝
2002年10月30日から平和島競艇場で開催されたSG第49回全日本選手権競走にてSGの初優勝をものにします。
優勝戦は1号艇出場、決まりて逃げでした。
2度目のG1優勝
2002年11月12日から児島競艇場で開催された競艇キングカップ開設50周年記念競走で2度目のG1優勝を手にします。
優勝戦は1号艇出場、決まり手は逃げでした。
3度目のG1優勝
2002年12月7日から大村競艇場で開催されたG1モーターボート大賞競走でG1優勝3度目を記録します。
優勝戦は、1号艇出場、決まり手は逃げでした。
2004年に4度目のG1優勝と2度目のSG優勝
2004年4月3日から宮島競艇場で開催されたG1宮島チャンピオンカップ開設50周年記念競走にて4度目のG1優勝を飾ります。
優勝戦は1号艇出場、決まり手は逃げでした。
その後、2004年6月22日から浜名湖競艇場で開催された第14回グランドチャンピオン決定戦にて自身2度目となるSG優勝を飾ります。
同期のサカナヤさんこと、魚谷智之が痛恨のフライングを喫したレースとしても有名ですよね。
前人未到の19連勝を記録した2006年
2006年8月31日から常滑競艇場で開催された一般・青梅特別では破竹の9連勝で再び完全優勝を果たします。
続く2006年9月11日からびわこ競艇場で開催された一般・第31回八景賞においては10連勝を飾り再度完全優勝を記録、これにより前人未到とも言える19連勝というすさまじい偉業を達成しました。
G1優勝2回の2007年
2007年11月1日から芦屋競艇場で開催されたG1モーターボート大賞競走で7度目のG1優勝、11月29日から常滑競艇場で開催されたG1常滑ダイヤモンドカップで8度目のG1優勝を記録します。
たちこめる暗雲と試練の時
圧倒的な強さで競艇界を席巻していた原田幸哉にも停滞期が訪れる事になります。
トップレーサーと言えど苦悩や挫折にはやはり遭遇してしまうものであると感じさせられますね。
優勝に手が届かない2008年
前年までは破竹の勢いで勝ち続けていたのですが、2008年は一般レースでの優勝1回のみに終わり、年末の賞金王レースに手が届きませんでした。
再起をかけた2009年でSG優勝も…
思い通りの走りができないままでいた原田幸哉でしたが、2009年8月11から常滑競艇場で開催された2009納涼お盆レースで実に1年半ぶりの優勝を手にし勢いに乗ると、11月24日から同常滑競艇場で開催された第12回SG競艇王チャレンジカップで自身3度目のSG優勝を手にします。
完全復活を思わせた原田幸哉はここで更なる試練に遭遇します。
痛恨のフライングで120日間欠場
2度目のSG優勝を手にしたことで、賞金王決定戦へ出場した原田幸哉でしたが、2009年12月21日の11Rトライアルでまさかのフライングを喫してしまいます。
賞金王トライアルでのフライングは大きなペナルティが課せられ、向こう4つのSG出場権の喪失、更にこれがその期で2本目のフライングだった上、その前の期に切ったフライングの休みも未消化であったことから、120日間の欠場を強いられることとなってしまいました。
一難去ってまた一難
フライングによる120日欠場の出走数不足でB1降格が確定していた2010年でしたが、欠場あけからしっかりと記録を残していきます。
再びトップレーサーとして邁進する…と思われたのですが…
脅威の9連勝で完全優勝
過去に2度の完全優勝経験のある原田幸哉ですが、降格前の2010年6月17日から下関競艇場で開催されたアプスシステム杯で3度目の完全優勝を果たします。
B1降格後も早々に優勝
2010年8月5日に浜名湖競艇場で開催されたかんざんじ温泉観光協会会長杯にて優勝します。2号艇出場、決まり手は差しでした。
A1復帰直後のG1近松賞で優勝
2011年にB1からA1へと昇格した直後の1月12日から尼崎競艇場で開催されたG1近松賞(開設58周年記念)にて再起戦で早々にG1優勝を決めます。
また、続く1月21日から若松競艇場で開催された中間市行橋市競艇組合施行41周年記念競走でも優勝、華麗な連続優勝で復活劇を遂げます。
ちなみにこの時の優勝で通算50回目、若松での優勝は初めてとなりました。
2013年即刻帰郷処分を受ける
2013年5月11日から平和島競艇場で開催となった開設59周年記念 G1トーキョー・ベイ・カップにて整備不良による速度低下を引き起こし、即刻帰郷処分となってしまいます。
これにより、後の褒賞懲戒審議会で3ヶ月の出場停止の処分、復帰後SGは褒賞懲戒で処分期間が含まれているため出場できないことになってしまう。
これは、SG開催要綱で「選考期間内に褒賞懲戒審議会に基づく出場停止処分を受けた者は、出場を除外する」という規定があるためでした。
1996年プロデビューから毎年していた優勝記録も、この2013年で途切れてしまいました。
屈辱のB2降格、そして…
2014年、B2から始まった原田幸哉でしたが、その強さは失われたわけではありませんでした。
A1昇格復帰と優勝を積み重ねる2014年
早々にA1へと復活をした原田幸哉は2014年7月26日から常滑競艇場で開催された一般・文月競争にてこの年1度目の優勝を飾ると、8月6日の大村では真夏の王者決定戦、9月29日の常滑ではトコタンカップ、10月15日芦屋では第1回ギラヴァンツ杯 モーニング王決定戦、10月23日の住之江では出身地対抗 東西決戦アクアコンシェルジュカップ、そして12月21日の桐生ではクリスマスカップ第8回ヤング・ミドル対抗戦で優勝を果たし、わずか半年で6度の優勝を記録します。
G1優勝で完全復活へ
2015年4月4日から大村競艇場で開催された開設63周年記念 GI海の王者決定戦では決まりて恵まれで自身11回目のG1優勝を果たしました。
また、2017年1月には開設62周年記念 G1競帝王決定戦、2017年4月9日にはシャボン玉石けん杯でのG1優勝を記録しています。
まとめ
鮮烈のデビューを飾ってから、常にトップレーサーとして走り続けていた原田幸哉も2度の挫折を経験し、SG優勝こそしばらくありませんが、今なおその強さは健在であり、その実力は間違いなく本物です。
2018年9月現在では4つの一般戦優勝を決めており、今後もガンガン活躍する選手と言えますね。
4度目のSG優勝、今後の活躍に期待大です。