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登録抹消?引退か?教師から競艇選手へ転身した坂井田晃の真相に迫る!

競艇 坂井田
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ボートレーサー

人生大逆転を胸に競艇選手への道を目指したという坂井田晃は夢をかなえることが出来たのでしょうか?今までの経歴について追ってみましょう。

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元教員の坂井田晃とはどんな人?生年月日や出身地、競艇界に入ったきっかけは?

坂井田晃

坂井田晃(さかいだあきら)は1980年8月20日生まれで三重県津市出身、三重支部所属の競艇選手です。
161センチ、A型、2018年現在は38歳で師匠に澤大介選手がいます。
第106期生として登録、登録番号は4591ですが、現在はその存在が確認できず引退したのではないか?と言われています。詳しくは後述致します。

競艇選手になったきっかけは?

教え子に教えてもらったボートレースに魅力を感じたからですと語る坂井田晃ですが、過去にパチンコにどっぷりハマってしまい負けっぱなしの日々が続き、当時結婚していた奥さんに愛想を尽かされて離婚されてしまい、人生の一発逆転を狙って競艇選手になったというのが本当のことみたいですね。

※ご本人の口から聞いたわけではありませんが、公言できるような内容ではないので逆に信憑性が高いです。

競艇選手になる前は教師をしていた

ボートレーサーになる以前は、三重大学教育学部卒業の経歴を持っており中学校の美術教師と、小学校での教諭をしていました。

小坂宗司と同期の106期、この年はやまと競艇学校の応募資格が緩和された時であったことから、元々美術の教員をしていた坂井田晃も受験が可能になったことで目指す事が出来ました。

ちなみに小学校は、津市立高茶屋小学校の6年生の担任をしていたということです。

ザ・ノンフィクションで取り上げられる

ボートレーサー 坂井田

1995年10月15日からフジテレビで放送されている日本のドキュメンタリー番組である、ザ・ノンフィクションにて、やまと学校第106期生が取り上げられ、その際に小坂宗司と共に坂井田晃も取り上げられました。

106期生から応募資格が変わり、年齢制限がそれまでの21歳未満から30歳未満に延びました。
その為、106期生には20代後半で門を叩いた遅咲きの卵たちがいた。
28歳で入学した坂井田晃は、元は美術教師で妻子もいたが、3年前に離婚している。
自分勝手なことばかりした挙句、ギャンブルにはまり、妻は見限り子供を連れて出ていってしまった。
息子のために人生をやり直したい、その一念で難関を突破し入学した。
しかし、坂井田晃は決して優秀な訓練生ではない、船を転覆させれば訓練は中断し他の訓練生に迷惑をかける。

坂井田晃は年長者だがみんなに頭があがらない。

年6回の試験では基準に満たないと強制退学になってしまうが、坂井田さんは合格最低ラインでした。

そんな中、やっとの思いで卒業をすることが出来た、ということですね。

坂井田晃のプロデビュー後の成績

プロデビュー後の成績

やまと競艇学校時代の成績はリーグ勝率3.66 準優出1 優出1で卒業記念競走での優出はありませんでした。平成21年12月15日~16日で開催された第3戦では6号艇から5コース進入、2着の成績を収めています。
そんな彼の成績をデビューからご紹介します。

プロデビューは2010年

やまと競艇学校を卒業して早々にプロデビュー戦を飾ります。
2010年5月9日から津競艇場で開催された津グランプリシリーズ第3戦の初日1Rで出場。
6号艇から出走をするものの、転覆で失格し、S1を付けてしまうというほろ苦いデビュー戦となってしまいました。
3日目は2レース共に5着、4日目2RではS0となってしまいます。

中々勝利に結びつかない

デビュー2節目となる2010年6月30日から浜名湖競艇場で開催された特別史跡新居関所ヒストリーアタックでも陽の目を浴びず、2日目5Rと最終日の7Rで5着を取った以外は全て6着、そしてここでもS0を付けています。

悲劇のS2を起こすデビュー3節目

他艇妨害にて失格となるS2をデビュー後初めて記録したのは2010年7月3日から尼崎競艇場で開催されたOBCラジオ大阪杯初日1Rでの出来事でした。
操舵技術が足りていないというのを自身も痛感した瞬間だったと言えそうですね。
また4日目2RでもS1を起こしています。

少しずつ走行が安定してくる

デビュー4節目の2010年7月28日から桐生競艇場で開催された第7回さわやか杯ではオールグリーンとも言える安定した走りを見せ、全走ゴールをすることが出来ましたが、全てにおいて6着に終わります。
更にデビュー5節目の2010年8月11日から津競艇場で開催された第34回納涼しぶき杯争奪戦の2日目1Rではデビュー後初めての4着を記録し、ここでも全てのレースを走り切ることが出来ました。

少しずつ調子を上げてくるかな?とも思われたのですが…

デビュー後初のフライングは+.08

2010年12月30日から津競艇場で開催となった第35回 新春レース初日2Rでデビュー後初のフライングを喫してしまいます。

ちなみに、2013年11月からは0.05秒以上早いタイミングでフライングをした場合「非常識なフライング」と呼ばれますが、この時にはまだ適用されていませんでした。

こうして前途多難とも言えるデビュー1年目が終わりを告げます。

デビュー2年目は早々にS1を起こす。

1月6日に再びS1を起こして失格

幸先よく迎えたいと願った2011年でしたが、年末から始まっていた新春レースの最終日である1月6日に再びS1を起こして失格して出鼻をくじかれてしまいます。

再び泣かされるフライング

2011年1月20日から戸田競艇場で開催された第26回日本モーターボート選手会会長賞2日目の3Rでは+.03のフライングを喫してしまいます。
ただ、最終日1Rではデビュー後初の2着を記録しています。

フライング休み明けからのフライング

2011年5月20日から津競艇場で開催された東日本大震災 被災地支援競走津グランプリ第3戦では2日目2Rに2着を取り勢いに乗りたい所でしたが、最終日の2Rでは+.01でフライング、続く9RではS2を起こすなど終わってみれば散々な結果になってしまいました。

G3初出場を蒲郡競艇場で果たす

2011年11月22日から開催されたG3第19回蒲郡スピード王座決定戦で自身初めてのG3出場を決めました。
結果は振るわず、最終日の11月27日1Rの5着が最高で、残りは6着とS0という結果でした。

フライングにおびえ攻め切れない日々

2011年7月29日から戸田競艇場で開催されたスポーツ報知サマーカップからはフライングを出さずとも、成績はぱっとせず2011年12月までの間にデビュー初勝利とはなりませんでした。

ついに念願のデビュー初勝利を飾る2013年

開局20周年記念競走最終日1Rで遂にデビュー後初の1着

2013年1月8日から蒲郡競艇場で開催されたJLC杯 開局20周年記念競走最終日1Rで遂にデビュー後初の1着を記録しました。4号艇出場からの決まり手は差し、3年目にして最高のスタートを切ることが出来ました。

続く2勝目は尼崎競艇場で

2013年4月10日から開催されたデイリースポーツ杯争奪 第24回ささはら賞競走の最終日1Rで2勝目をマークします。
3号艇出場、決まり手は差しでした。

3勝目は江戸川競艇場で

徐々にエンジンがかかってきた坂井田晃は2013年5月21日から開催された第38回スポーツニッポン杯の二日目1Rでで3勝目を手にします。
1号艇出場でしっかりと逃げ切ると、3日目、4日目、最終日ではそれぞれ2着を取るなど、成績が安定してきます。

4勝目は三国競艇場で

2013年7月4日から開催されたふみづき第1戦の4日目3Rでも1号艇出場、決まり手は逃げでした。

5、6勝目は江戸川競艇場で

2013年11月3日から江戸川競艇場で開催された富士通フロンテック杯では3日目3R、3号艇出場から決まり手はまくり、最終日5Rでは、1号艇出場で逃げと快勝でした。

こうしてデビュー初勝利を決めた後は、とんとん拍子で勝利を手にするようになったのです。

優勝をその手にすることが出来ない

A1昇格も叶わないまま

2013年の初勝利から、2014年に至っても、2018年まで1着を取り逃した年は無く、一般戦では勝ち星を挙げていましたが、実のところ優出をした経験というのが無く、当然優勝も無しのままでA1昇格も叶わないままになっていました。
ただ、展開が悪いというわけでも無く、チャンスさえ巡ってくれば…というところで、とんでもない出来事が起きます。

引退勧告があったのか?暴走した2018年

第6回ボートレース研究ファン感謝祭

2014年は7勝、2015年は6勝、2016年は5勝、2017年は二桁まであと一歩の9勝ときて迎えた2018年。

元日に三国競艇場で開催された第44回 初夢賞では2連勝を決め、好スタートとなったのですが、2月18日に江戸川競艇場で開催された第6回ボートレース研究ファン感謝祭の最終日8Rでフライングを起こしてしまいます。

ここから勝利を収めることが出来ないまま、7月となります。

2018年2本目のFを喫す

7月13日から浜名湖競艇場で開催された地区対抗第3戦!東海vs近畿の最終日9Rでフライングをしてしまいます。
またしてもフライングに泣かされる年となってしまうのか?問題は、この次の節でした。

3本目のフライングは様子がおかしかった…?

7月28日から下関競艇場で開催されたオラレ下関オープン4周年記念 山口新聞社杯の4日目、進入固定で行われた5Rで6号艇出場、トップタイミングでスタートしましたが惜しくもスリットオーバーでフライングのため返還欠場となってしまいました。

しかし、何を思ったのか坂井田晃はレースから離脱することなく最後まで走り切ってしまうのです。

通常、フライングをした場合、実況のアナウンサーから返還欠場が告げられ、早々に離脱する必要があるのですが、それが耳に届かないのか、完走をしてしまいました。

これにより、当然失格、欠場艇表示盤見落としによる即刻帰郷となりました。

あっせん削除と登録抹消

2018年8月12日から津競艇場で開催された中京スポーツ・三重テレビ納涼しぶき杯争奪戦に出場予定となっていたのですが、あっせんを削除され、それ以降のあっせんレースが1つもない状態になってしまいました。

また、ボートレースオフィシャルウェブサイト上でも、坂井田晃のページは無くなってしまい、登録番号である4591で検索をしても引っかからないという状態になっています。

正式に引退になったのか?というのは定かではありませんが…

フライングをわざとして引退を免れた?

わざとフライングをした

一説には、わざとフライングをした事で、出走を48走以内におさえることで引退を免れたのではないか?とも言われています。

斡旋保留規則
勝率3.00以上を維持できない場合または事故点が1.00を越えた場合
登録6期(3年)以内または出走回数50走未満は除外。

これに抵触した場合は半年間の斡旋保留になりこれが事実上の引退勧告になります。それを受けて本当に引退するかどうかは選手自身が決めます。斡旋保留期間内で訓練を積んで復帰して再び斡旋保留には至ってない選手もいますがそれでも2度目の斡旋保留は引退になってしまうと思います。

ただ、何か腹をくくったかのような走りのようにも見えた事から、自身が見切りをつけたのではないか?とも考えられますね。

まとめ

登録抹消

少しずつ1着を獲得できるようになってきたところだったので、優出を果たしての優勝という流れを取れば、恐らく伸びて行けただろうと思えるのですが、登録抹消という事態、フライングも重ねて再起をしてくれるのか?というのは正直わからないですね。

2019年の彼の動向、わかり次第追記したいと思います。

この記事の監修者
佐々木 雄介
競艇予想サイトNAVI 運営責任者【北村 功平】
1978年 2月11日生まれ。一橋大学卒業。大学時代から競艇にハマり、そのまま好きが高じて某スポーツ新聞社に入社。競艇をはじめ、競馬や競輪関連の記事を長らく担当。生粋の競艇好きで、休みの日もビールを片手に全国の競艇場に姿を表す。競艇を愛して22年、彼以上の競艇知識を持つ人間にはほとんど出会えない。競艇予想サイトNAVIでは全体監修を担う大黒柱。
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